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Honda Racing Heritage

2018
Toro Rossoと新たな歴史へ


2018年はHonda Racingにとって新たな1ページの幕開けとなりました。

新パートナーにScuderia Toro Rossoを迎え、グランプリの激しいバトルの中で自分たちのパワーユニットを戦わせます。Hondaの創業者・本田宗一郎のF1で成功するという断固たる決意は今の世代にも受け継がれ、日々の努力の源になっています。若く野心にあふれたToro Rossoと手を組み、成功へ向けた新たな旅立ちに、胸が高鳴っています。

遠い昔に始まった戦い。それでも、進化を止めずに成長し続ける…

1962
だれでも最初は素人なんだ


Honda F1の歴史は、初参戦の2年前、1962年にさかのぼります。

当時、欧州勢が権勢を誇っていたF1に本田宗一郎が参戦を決め、Hondaは大きな一歩を踏み出します。このプロジェクトの責任者を託された杉浦英男は、どう取り組んでいいものか悩む毎日。

当時の研究所所長・工藤義人のこの一言が、杉浦を落ち着かせました。「だれでも最初は素人なんだよ」

1964
Honda F1のデビュー


すでに二輪レースでは実績を残していたものの、さらなる結果を求めてF1の世界の扉を叩きます。

初めて市販用四輪車を開発してから4年、Honda初のF1マシン「RA271」が完成。これが初めてF1を走った日本製マシンとなりました。エンジンは1.5LのV型12気筒で、当時エンジンとシャシーの両方を自前でそろえたチームは少数派でした。

Hondaが作り上げた純日本製F1マシンは、欧州中心のF1界に衝撃を与えました。

1965
Learning from victory


1965年、2人目のドライバーとしてリッチー・ギンサーが加入し、新型マシン「RA272」でシーズンに臨んだHonda。水冷48バルブV12エンジンは、230馬力を誇り、抜群の加速性能も実現していました。

その年の最終戦メキシコGP、ギンサーはスタートからチェッカーフラッグまでトップを快走し、Hondaに史上初のF1優勝をもたらしました。

たしかに素晴らしい勝利ではありましたが、まだまだ課題は多く残っていました。


本田宗一郎

Honda創業者

1967
モンツァで挙げた2勝目


F1が何なのかさえ知らなかったところから始まった成功への道のりで、まるでレースのスピード感そのままに急速な進歩を遂げました。

本田宗一郎は常々、成功は99パーセントの失敗に支えられた1パーセントであると考えており、まさにそれを実感したのが1967年です。エンジン変更によって向上の余地は広がったものの、増加した車重に悩まされるシーズン。9戦目で新型マシン「RA300」を投入します。

 

葉巻型シャシーに48バルブV12のHondaエンジンを搭載し、特徴的なバンク外吸気/内排気は、まるで滝のように流れる美しい形に。

接戦で迎えたファイナルラップ、ジョン・サーティースは3番手からトップに浮上し、Hondaにとっての2勝目を成し遂げました。

この勝利もあり、このシーズンはコンストラクターランキング4位。これまでの最高位でシーズンを終えました。

1969-1982
F1活動の休止


F1界で一足飛びの進歩を果たしたように見えたHondaでしたが、コース外ではさまざまな問題に対処していました。米国での大気清浄法(通称、マスキー法)クリアなど新たなチャレンジに向け、HondaはF1撤退を決断します。

1983
F1への復帰


15年の時を経て、F1の技術的な進化が再びHondaを呼び戻します。

新興のスピリット・チームへ、1.5リッターV6ターボエンジン「RA163E」を供給。この形は、現在のToro RossoへのPUサプライヤーという構図に似ているかもしれません。このエンジンには、電子制御を駆使した燃料噴射システムを搭載。のちに「PGM-FI」として市販車にも導入されるこのシステムが、燃焼性能と燃費の向上に寄与しました。

すぐに成功とはいきませんでしたが、決して諦めることはありませんでした。

1984-1985
根気強さが実を結ぶ


1984年を迎えると、徐々に結果が出始めます。ダラスGPでは、ケケ・ロズベルグがHondaエンジンを搭載したウイリアムズのマシンで優勝。Hondaは久しぶりに表彰台の中央に戻ってきました。

しかし、ただ優勝するのみで満足せず、さらなる向上を目指して取り組みます。

1986
特別な時代の始まり


V6ターボエンジン「RA166E」が徐々にコース上を席巻し始めます。

ウイリアムズ・ホンダFW11は1000馬力を超え、1986年シーズンで最もパワフルなマシンの一つとなりました。ナイジェル・マンセルがわずか2ポイント差でドライバーズタイトルを逃したものの、ウイリアムズがコンストラクターズチャンピオンに。ここからHondaにとっての黄金時代が始まります。

1987
Honda=F1チャンピオン


1987年、ロータスとウイリアムズにエンジン供給を行い、ドライバー、コンストラクターのダブルチャンピオンを獲得。ドライバーズランキングでは、チャンピオンのネルソン・ピケを筆頭に、ナイジェル・マンセル、ロータスのアイルトン・セナと続き、トップ3を独占。本田宗一郎が夢見ていた勝利を実現したのです。


本田宗一郎

Honda創業者

1988
歴史的な快挙


1988年シーズンは連勝に次ぐ連勝の年となりました。

数年にもわたる成功を収めてなお、HondaのV6ターボエンジン「RA168E」を積んだMcLarenのマシンは向かうところ敵なしでした。このマシンを駆って、稀代の名ドライバーであるアラン・プロストとアイルトン・セナは、実に16戦中15勝を挙げる快挙を成し遂げました。

セナがドライバーズチャンピオンに輝き、我々は再び、コンストラクターズの頂点に立ちました。

1989-1992
適応と学習、そして勝利へ


1989年シーズンから、レギュレーションによりターボエンジンが禁止されることに。

競争相手がV8やV12に移行する中、HondaはV10エンジンを選択。すぐにその選択が正解だったことが明らかになりました。McLaren-Hondaがシーズンを席巻し、コンストラクターズチャンピオンに輝いただけでなく、プロストがドライバーズタイトルも獲得してみせたからです。

 

プロストは11度の表彰台に登壇し、見事シーズンを制しました。かたや、セナは16ポイント差で2位となりました。

1993 – 1999
再び一線を退く


チームにエンジンを供給する、言わば裏方の役割に徹することで、我々は自分たちが成し遂げたことを真に理解することができました。

1983年から1992年の間に、Hondaは69のレースでエンジンを供給。勝率は40パーセントを超えていました。1992年を最後にF1から一時的に離れましたが、その時点で目標はすでに達成されていたと言えます。

2000
HondaとBAR


2000年、Hondaはどれだけ成長したかを試すべく、BARのエンジンサプライヤーとして、再びF1に参戦を開始しました。

しかし、そこで見たF1は以前とすっかり様変わりしたものでした。新しいサーキット、そして以前より多くのコンストラクターがひしめき合う光景を目にして、我々は一からやり直さなければならないことを悟りました。我々はドライバーとともにに学習するため、佐藤琢磨をF1のテストドライバーとして起用しました。

2004
飛躍の年


BAR-Hondaとして4年目のシーズンとなったこの年、Hondaはコンストラクターズ・チャンピオンシップで2位となりました。ジェンソン・バトンはシーズンを通して10度の表彰台に登壇し、ドライバーズランキングで3位につけました。

2005-2006
ついにつかんだ勝利


2005年、HondaはBARを買収し、それまでの50年の間で初めて、F1専用のファクトリーを建設します。

それは大きな決断でしたが、このプロジェクトに関わった者すべてのあくなき努力は、ジェンソン・バトンがハンガリーGPでキャリア初勝利を飾ったときに労われることとなりました。第一期・第二期よりも時間はかかったものの、開発が成果を上げていることは明らかでした。バトンの愛機として優勝を勝ち取ったRA106は、V8デザインの中でも最もパワフルなマシンの一つとして認知されていました。

バトンが劇的なウエットレースを制したあとも、Hondaはレースに挑み続け、コンストラクターズチャンピオンシップでは4位となりました。

2007
グリーン・フィロソフィー


2007年、Hondaは独創的で、かつ全く新しいマシンカラーリングを発表しました。

シーズンを迎えるにあたり、Hondaは環境の重要性を宣伝したいと考えていました。そこでスポンサーと協議を重ね、マシンを地球のイメージで彩ることに決めたのです。それはF1の伝統的な広告デザインから完全に解き放たれたものでした。

マシンのデザインは波紋を呼ぶこととなりましたが、現在のF1において、環境技術を取り入れたエンジンの効率性は、最も重要な課題の一つとなっています。

2009 - 2014
世界的な環境変化


世界的な景気後退が激しさを増していく中、Hondaは市販車ビジネスに全力を注ぎ込まざるを得ない状況に立たされていました。企業を強くするため、F1から手を引くことを決めたのです。

2015 - 2017
夜明けを目指して


2014年から、F1マシンのハイブリッド型パワーユニットが導入されます。従来型のエンジンではなく、より効率的な1.6リッターのターボエンジンとなったことで、マシンの性能は大きな飛躍を遂げました。その先進技術の魅力は明らかで、2015年から、Hondaは再びコースへ降り立ちます。

精密で複雑なシステムに取り組むべく、Hondaはマクラーレンとタッグを組むことを決定。モータースポーツの世界で最も有名なパートナーシップの一つが、ここに再始動することとなりました。


本田宗一郎

Honda創業者